【人類は究極の可愛いを発明できるのか?】もしくは死ぬまで可愛いの奴隷なのか? イラストを描いている時の無力感について

2次元世界に恵まれた日本人は、

自身の年齢に関係なく、

常に赤ちゃんを愛でている感覚に支配されている。

by Vangelius Papagetta

(ハーベードゥー大学 教授)

実はブログらしいことを書くのは初めてとなる。

2017年の1月にword pressを使ってメディアを立ち上げてからは、

常に自己を殺した記事を作成することを第一に考えていた。

もちろん、アニメ関連の記事やネタ記事であっても、

楽しみながら書いていたし、自分でも結構気に入っている。

これまで書いてきた記事のほとんどが、酔っ払いながら書いたものだ。

それでも、自分をさらけ出すような、本音を書くことはできなかったように思う。

なぜなら、私は批判が怖い。

だから、あらかじめ自分ではないキャラクターで書くことで、

批判があった際の精神ダメージを軽減させるようにしてきた。

わざと口汚ない文章で書き連ねる設定にして、自分の心にあらかじめ保険をかけておく。

それは本音ではありません、という具合に。

自分の言葉で紡いだもの、自分の感情で紡がれたものを読んだ人が、

なんかこいつ気持ち悪いな。

そういう風に思われると、私はどうしようもなく恥ずかしくなって、

自分をさらけ出したことを激しく後悔し始める。

だから、さらけ出したものに実績が伴わない場合は、

決してそれを自分が書いた(描いた)と、私を現実世界で知っている人たちには言わない。

家族にすら内緒にしている。

もちろん、数少ない大切な友人には話すし、このメディアを立ち上げたときも報告した。

そういう精神状態であるため、ブログ形式のメディアを独学で立ち上げたのに、

自分の心情を綴ったブログというものを書いたことはなかった。

それでも今日は、初めてブログを書きたいと思った。

なぜなら私は、2017年の9月7日から、持病が悪化しているからだ。

『承認欲求』という病と『可愛い狂い』という病だ。

承認欲求については、またの機会に譲るとして、

今回は、可愛い狂いという病を知ってもらいたく、ブログを書いている。

まずは、こちらのツイートと目のイラストをご覧頂きたい。

このサイト名を、二つの目が話している。

これが、この病の兆候だ。

サイト名はともかくとして、目を描きたい衝動に駆られ始めたのは、

これまでで、この日が一番強かったと記憶している。

私の中で可愛いの基準は、まずは目だという認識があるのか、

目を描きたい衝動がわきあがったのだ。

同時に、こんなに目が書きたいのはおかしいと思い、

目を描く 心理

とグーグル検索したくらいだ。

どうやら、承認欲求が満たされないと、目を描きたくなるようだということが分かった。

目を描くのは、見てもらえない現状を自分で補う行為のようだ。

それは確かにあると思うが、可愛い狂いについて言及してあるサイトはなかった。

世界初となるかもしれないが、ここで可愛い狂いについて記述しておきたい。

可愛い狂いとは、

究極の可愛いについて考え始めて、それに支配された精神状態のことを指す。

初期症状は様々あるが、私の場合は目を描く衝動にかられた。

私にとって可愛いの中心はまず、目だという認識が今はある。

だからまず、目を描き始めた。

次に目と、可愛いものを組み合わせたものを描き始めた。

私が可愛いと感じる女性声優をモデルにしたイラストだ。

このイラストを描いても症状は良くならなかった。

だからまた、描いた。

それでも収まらず、次は男性声優にまで手を出してしまった。

まだ、収まらなかった。

次は、おしっこを我慢している幼女吸血鬼が世界一可愛いに違いないと思って、

もういてもたってもいられなくて、描いてしまった。

描けなかった。

とても難しくて、頭の中でイメージしたおしっこを我慢している幼女吸血鬼を描くことができなかった。

この時、大きな絶望を感じた。

何で可愛いものを描けないのだろうかと、絶望した。

ただ、それが違った可愛いものに見えてきてまた描いてしまった。

この絵を境に、症状は緩和したように思う。

途中から、この記事が少しネタっぽく感じてきた自分がいるが決してふざけていない。

本気で可愛い狂いにやられていた。

現在も可愛い狂いの影響は残っていて、

究極の可愛いとはナンなのか?

という哲学的なことを考え始めている。

症状が悪化すると、食べるナンも可愛いと認識してしまう可能性を否定できないだろう。

例えば、女子高生などは食べ物さえも可愛いと形容する。

私はその領域までたどり着けていないが、

女子高生などはディズニーランドが大好きで、そのキャラクターも好きだろう。

世界的な可愛い代表のディズニーキャラクターをはじめとして、

世の中は驚くほどの可愛いに溢れている。

2次元の世界、猫、犬、もちろん人。

私は怖い。

この可愛いものが溢れた世界が怖い。

可愛いにキリがない、終わりがない。

次々と新しい可愛いが生まれてくるし、創作される。

可愛いを生み出しても、次の可愛いに倒される。

可愛いものを見つけて、私もそれを真似して描きたいと思う。

でも、オリジナルの可愛いを超すことはできない。

ただ、オリジナルの可愛いイラストを見つけても、次の瞬間には違う可愛いが目に飛び込んでくる。

これは本当に恐ろしいことだ。

加えて、自分の中で可愛いと思っても、他者からするとそれは可愛くないかもしれない。

これも恐ろしいことだ。

可愛いには、究極の、唯一無二の、世界基準がない。

どこにもない。

これが可愛いものです、という基準がない。

そして、世界で一番可愛いものだと、世界中の全ての人々が感じるたった一つの可愛いものは存在しない。

もし、世界規模で街頭インタビューをしても答えはひとつではないだろう。

「わが子です」

「おしっこを我慢している幼女吸血鬼です」

「アイドルの○○ちゃんです」

「我が家の猫です」

答えは千差万別だろうし、それは時代によっても変わってしまう。

一昔前なら、

「松田聖子です」

なんて答えもあっただろう。

永遠に変わらない可愛さがない。

可愛いがひとつじゃない。

学術的なことを述べると、黄金比に従って描かれたものは美しく、可愛いものが多いようだ。

また、赤ちゃんのような特徴を持ったものを、人は可愛いと認識するようになっている。

頭蓋に対して大きな目や、丸みを帯びた形状などだ。

『ねんどろいど』というフィギュアをご存知だろうか。

二次元のキャラクターを、デフォルメし2頭身で表現したものだ。

まさしくこれが頭蓋に対して大きな目や、丸みを帯びた形状で、

人は可愛いと認識してしまう。

これはこのフィギュアに限った話ではなく、デフォルメ化された2次元キャラクターに対してもいえることだ。

このことから、2次元世界に恵まれた日本人は、

自身の年齢に関係なく、常に赤ちゃんを愛でている感覚に支配されている。

と言えるかもしれない。

可愛いはひとつではない。

キャラクターの数だけ可愛いがある上に、目の種類や眉、口、髪型を合わせるとおそろしい数の可愛いが待機している。

私たちは、究極の可愛いにたどり着けない。

死ぬまで可愛いに支配されて、一生色々な可愛いに目移りして生きていく。

これが、創作している上で襲われる無力感だ。

自分が世界一可愛いと思って生み出した創作物が、他者からしたら世界一ではない。

それどころか、数日経てば、自身さえ次の可愛いを追求し始める。

そんなことの繰り返しだ。

私は究極の可愛いを生み出したい。

究極のかっこいいも生み出したい。

創作したい。

発明したい。

それは3DCGで表現できるのか、イラストで表現できるのか、

マンガで表現できるのか、文章で表現できるのか、音楽で表現できるのかはわからない。

おそらく人類は、究極で唯一の可愛いを発明できない。

一生、可愛いの求道者。

死ぬまで可愛いの奴隷。

それでも人は可愛いを生み出し続けるだろう。

挑戦し続けるだろう。

可愛いに浮かされながら。

無力を感じながら、それでも。

私も。

究極の可愛いを生み出したいからだ。

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