大切な人の死に直面して気づいた、自分の死について思うこと

実は人の死について考えさせられる出来事があったので、このようなタイトルで書くことに決めた。

とても独りよがりな内容で、ある種記録のために書くものなので読まないほうがいいと思う。

 

きっかけとなった方は、

私の倍以上の年の差があるが、亡くなるには早すぎる人だった。

その方は誰かのために人生を歩んできたような方で、

常に大きなストレスと向き合わなければいけない日々を過ごしていたように思う。

事実、その大きなストレスとなる相手よりも先に亡くなってしまったのだ。

お見舞いに行った際に見た時の衝撃というか、やるせなさというのか、

自分の無力さや悲しさは忘れることはできない。

病室を出てすぐ涙が溢れたのを覚えていて、

今も泣きそうになっている。

その方の家に遊びに行けば、快く歓迎してくださり、

夕飯はからあげというのが定番で、私はそれが好きだった。

私の人生の節目では、血のつながりもないのにお祝いしてくれたりと、

とても良くして下さった大切な方だ。

良い人ほど早く亡くなってしまうような気がする。

 

この方を以下Aさんとさせていただく。

果たしてAさんは自分の生きたい人生を歩めただろうか。

もちろん、本人にそのようなことを訊けるわけもなく、

お見舞いの際にはそんなことすら思えないほど変わり果てた姿にショックを受けていた。

交わす言葉も少なく、帰り際、握手した。

Aさんは力なく笑った。

 

自分が望む人生を歩めない人は多いはずだ。

それは、自分以外のところに原因があったり、

自分自身に原因があったりと一様ではない。

そもそも望む人生がない場合もあると思う。

 

私が大切な人の死に直面して気づいた私自身の死について考えたとき、

それは決して避けられない平等に訪れる永遠の眠りであるが、

その日まで自分自身が人生をどう歩みたいのかと、

逆に自身の生きていくための原動力を見つめなおすきっかけを与えてくれたように思う。

 

何のために生きて、なぜ死にたくないのか。

実はそれは考えるまでもなく、常に自分の中にあって、

毎日そのことを考えている。

私は自分の中にある物語を他者に見える形で創造していくために生きていきたい。

また、自分の中にある物語を他者に見える形で創造し終わるまで死にたくない。

 

創作で生きていきてきたいと思ったきっかけがあって、

それはもうだいぶ前の出来事だ。

最初は大賞賞金に釣られた気持ち半分、

書きたい気持ち半分で小説投稿をはじめた。

 

今は表現したい物語の世界観は同じだが、

媒体を変えて表現し始めている。

 

先日のことだが、

高校時代の友人と集まって呑んだ。

結婚して子どもがいたり、

仕事で重要なポジションに就いていたりと、

立派に社会に貢献しているように思えた。

なんというか上手く言えないのだけど、

生まれてきた義務をしっかりと果たしているような気がした。

正直、私は恥ずかしかった。

定職に就かず、やりたいことをして過ごしている。

いや、過ごさせてもらっているようなものだ。

夢や目標をもってそれに向かっているといえば聞こえはいいだろう。

しかし、若さを売りにして就職できるような歳はもう過ぎたし、

すぐにお金に変えられる特別な技能もない。

誇れる学歴も経歴もない。

お金もない。

あるのは創作したい物語だけだ。

夢や目標を語る相手もおそらくいなくなっていく。

現実を受け入れて社会に溶け込んでいく。

自分の時間をお金に変えて。

数年後また集まったとして、同じ話をしたら笑われもしなくなるだろう。

 

でも私はそれでいい。

私はそれでいい。

社会から疎外されているという思いが強くて辛いときもあったし、

これからもそうだと思う。

疎外されているのではなくて、自ら疎外される生き方をしているのだから。

言ってみれば、異端者だ。

この世界や時代で正統とする信仰や思想などから、はずれている存在なのだ。

だが異端者は未来で正統となる。

そう信じている。

 

なにかを成し遂げるためには苦労や困窮して不安な日々も経験する必要性はない。

若いうちにあえて苦労をする必要もない。

ただ、なにかを成し遂げるための過程にそれらが絶対的に伴うのなら、立ち向かわなくてはならないとは思う。

物理的な妨げや精神的な妨げに関わらず、立ち向かわなければいけない。

でも逃げられるのなら逃げて、逃げまくって完全にまけばいいと思う。

 

不安な日々はおそらく消えない。

それが日常で、何とかコントロールしていくしかない。

現在、異端者でマイノリティーとされる生き方は受け入れられないことのほうが多いが、

未来ではそうではないと思う。

叶えたい未来があって望む生き方があるのなら、それ自体がもう宝くじに当たるよりも幸運なことで、

それに向かって歩んでいくべきだし、歩んでいこうと思う。

 

もうそんな未来を何年いってんだよってなるんですが、

何十年でも言うと思います。

それが死にたくない理由であり、生きていく理由である限り。

きさらぎエヴァンジェリスタ

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